役僧 星野研至の師僧である故・猿渡管長の思い出話を通して(仏ごとの色々)1 小生は学生でした。他寺ですが、師僧の管長は平成9年(1997年)上海に国賓待遇で招待された事がありました。上海の新聞記者さんの関心があり、そのご縁で視察に来て欲しいとなったそうです。地元警察(Japan)の方が、外務省から人物照会があったけれどもと尋ねて来られたそうです。 管長曰く「わしも分からんが、名目は中国仏跡視察団となっている。とにかく行ってみればいい」となり行かれたそうです。到着されると、上海空港の空港長がお出迎えに来て下さったそうです。なんと、地元警察のパトカーに先導して頂いたそうです。故・管長はテレビのインタビューで、「日本仏教の起源である中国の仏跡を実際に見て触れて魂で感じたい」と答えられたそうです。 この上の写真は、違っているかも知れませんが、「雲林禅寺」かな?(Unknown, maybe mixed...)山門の奥に東大寺大仏殿位の大きさが三段に建っていて一番上の上がり詰めた処で、坊さん二十数人が出迎えてくれ、一斉に読経を始められたそう。日本の葬式で聞くお経とは違い、金属音・超音波の様な感じだったと。チベットのラマ教の坊さんもこういう響きのあるお経のあげ方だったそうです。招待される十五年前に石窟寺院に行かれた時に北京経由でモンゴルに行かれたそう。モンゴルの凄い風の音を聞き、小さな店内で酒盛りをしていたモンゴルの男の人から、ホーミーの歌を聞いていた。その時、その歌を聞いて涙が出て仕様がなかったとの事でした。ここでは書きませんが、読経から、歌から教えられたと色々話されていました。 この上の写真は、中国仏教協会副会長の明暘法師猊下(江沢民氏の相談役)の自坊での会見の時の写真だと思います。これは随行した本山住職の話ですが、「日本の友よ、よく来てくれた。お待ちしておりました。」偉い方なのに、フレンドリーな感じが凄いと言っていました。また、用意して頂いた中華の精進料理は食べた事がないぐらい美味しかったとの事でした。 そして、目的の一つでもある「王羲之」の書を拝観されたかったそうで、上海博物館に案内され歴史に触れられて来たそうです。上海から隣の杭州に入るとパトカーも管轄の杭州に引き継がれ、先導してくださりました。車のナンバー1番は警察署長が使い、その次が2番なんだそうです。西湖のホテルに宿泊すると食事の際に好みの料理が出てきたそうです。事前に外務省が調査をされて、好みを把握されていたそうです。 この上の写真は、先導されたパトカーをバックにして記念写真。警察官と慕って随喜された日蓮宗の貫主さん この上の写真は、鵞池かなと思います。王羲之は鵞鳥が好きで、今も池にいるそうです。 蘭亭書法博物館の館長さんに是非、揮毫して下さいと頼まれ揮毫されているところ。想定外の為、落款を持参していなかったので押せませんでした。残念。 書かれた時の「道」=求道の意味は聞いています。「人の一生は、常に向上心を持って生きねばならない。向上心なくて何の修行ぞ」そんな意味で書かれたそうです。 以下は、余談です。 管長の以前こんな事を言われていました。 咀嚼して言いますと、国宝クラスの観音さんも面が十一も顔の上にあったら普通だったらありえないですよね。でも何故だか涙が出るほどきれいだと。「どんな物であっても、昔の人が言うように、鰯の頭も信心からという言葉がありますが、やはり、祈りの対象として、真剣に念じたら美しく見えてくるんですね」と。そして祈りについてこの様な事があったそうです。「管長が世話になっていた人が病に倒れて入院された。退院は避けた方が良いと勧めていたが、病院側の小康状態だからと自宅療養となったが、家に帰り階段から落ちて足の骨を折られ、病状悪化で入院され危篤状態に陥り連絡が来たそうだ。数日後尋ねられて、彼が管長をみて(一生懸命拝んでいるんです。管長あなたの顔を浮かべて、いつも一生懸命祈っていますと)管長は(私を信用してくれていたようで、危篤状態になってから、私がよく夢の中に出て来るらしく、それで手を合わせ一生懸命祈っていたようです。その内、体の具合も変り足の腫れが半分になり、腹のぱんぱん状態も、顔のむくみも収まって来ているのです。なる程と思いました。祈る心境・祈る能力のある人は救われるんだなと。)また、(祈る対象を持った人間は幸せだとも。)そして、(辛い時、有難い時、悲し時、どんな時でも感ずるに祈られてはと。祈る対象は何でも良いと。仏や先祖など思い浮かべながら、自分の家の宗派の称名や題目、自分が信じるものの中から自然に心から出て来るもので良いと。祈りは布団の上でも何処でも良いと。)また、(法然さん一遍さん日蓮さん等々・・本当に偉大だと念仏を唱えると救われるとおっしゃられている事が改めて実感出来る思いです。と仰っていました。)」 この事を自分への戒めとしても記して今回は終わりにしたいと思います。 管長が行の世界に身をおかれ感じ取られた事として、「仏の耳は長く大きい。それは自分の心や現状をわかって欲しいという、衆生からの訴えや願いを隅々までよく聞いてやろうということで、それぞれの人間の悩み・苦しみを、あらゆる神経を使って、聞いてくれようとしている証である。我々仏の世界に縁を持つ人間は、仏の耳の大きいのと同じ立場に立てるように、修行しなければならない。と先輩弟子に対して今一度戒める様に、諭せとの事でした。管長の言葉を借りれば、教養とは、他人の苦しみを理解する心を養う事だそうです。」 まだまだ精進が足りない様です。息を引き取るまでにもう少し成長して旅立てるかな?頑張ろうかな!?頑張ります。 この続き、秘話はまたの機会に。 合掌 大慈大悲 役僧 星野 研至 Languageこのページは自動的に翻訳されました。元の内容と異なる場合がありますので、ご注意ください。